もののイロハ

雑記オブ雑記

【ロ】ロジックが真実と一致しないわけ

世の中は無駄を省く合理化の流れをひたすら突き進んでいるように思える。僕自身も電車の乗り換え案内を参考に少しでも安く、早く到着できる方法を選んでいる。

昔予備校で聞いた黄ばみに黄ばんでくっきり読み取れない知識を掘り起こすと、これはどうも宗教的な流れと無関係ではないらしい。

かつてカソリックの人たちは懺悔することで許される文化ゆえ果敢にトライし、しくじり、懺悔し、立ち直るというステップを踏んでいたらしい。しくじっても立ち直れるからリスキーなトライもできる、だから英雄も誕生しやすいという理屈だったと思う。(※めちゃめちゃ曖昧模糊とした記憶より引用)

それがプロテスタントが台頭し、神のための貯蓄という発想がもたらされ、そこから貯蓄のために無駄を省くという考え方へ移行し、それらの国から日本へ合理化の理念が持ち込まれたのだとか。(※めちゃめちゃ曖昧模糊とした記憶より引用)

合理化は結構だがこれを絶対的な正義としてしまうのは少々危険。

例えば、誰かに正論で諭されるも全く納得出来なかったという経験はないだろうか?

これは、必ずしも論理が真実を映さないことが原因だと僕は睨んでいる。かなりきつめのヘビ睨みだ。

論理とは言葉である。言葉とは物事の一般化である。

自分の思ったこと、経験したことを誰かに伝えたい場合、これを1度言葉に直す必要がある。言葉に直す時に価値の低い情報、あるいは個人にしか理解できない情報は処理される。簡略化と一般化こそが言葉に直す時のそもそもの目的だからだ。

こうして価値の低い情報、個人にしか理解できない情報として処理されてしまった部分にも本来は何らかの役割があったはずなのに、そこを削り取られてしまった編集済みの論理は事実、真実の一部を削り取られてしまっている。

これがロジックと真実が一致しないわけである。

言葉を用いる限り論理は真実とぴったりイコールの関係にはならないし、だからこそ音楽や絵画があるんだと思う。

ちなみに、同じ言葉を用いる分野でも無駄を愛する文学は真実を映し出す、というのが大和田の見解である。

以上!解散!