もののイロハ

雑記オブ雑記

【ヤ】夜間を惜しんで綴り候

――事実とは、真実を切り取ったものである。編集済みのものである。いかなる場合においても、編集は恣意的であることを避けられない。朝と夜を同時に拝む方法を見つけない限り、本当の客観は訪れない。

――形而下に確かなものは何ひとつない。確かなものは、机上の空論のみである。

【ク】屈折した見方で語るならば

この頃歴史に関心がある。歴史ものをテレビなんかで見かけると、時間を忘れてじーーーっと眺めている。

別に教養を身につけたくなったわけではない。自然に関心が向くのである。

僕は歴史を敬遠してきた。歴史というものの不確かさに、価値の立脚を見送ってきたからである。

なぜ、今更関心が向くのだろうかと考えた。飲み会でどかんとウケるようなネタに当たることがあるからだろうか。いや、だとしたら効率が悪いし、もっと貪るように見入っているハズである。

あれやこれや考えて、突き当たった結論はずいぶん屈折したものだった。

歴史というものはとても不確かである。最も正確でなければならない義務教育の教科書でさえ簡単に訂正されてしまう。そこが良いのだ。僕は確かにこの理由から歴史を敬遠してきたのであるが。

歴史は数少ない材料から推論されるものである。カップに茶渋が残っていれば、そこから当時お茶が飲まれていたことなどを導き出す。

それは度々間違っているのだが、限られた材料から一生懸命最もらしいものを考えて、歴史は推論された、というところが面白いのだ。この過程こそを愛おしく思う部分が僕に歴史番組を眺めさせている。

人が全力で紡いだ架空の歴史というのは、場合によって真実よりも面白く、価値があるのではないだろうか。

【オ】おいそれと一言

第一印象は人を支配する。

――僕は日本酒を好む。初めて口にした日本酒が上等だったからである。あれがもし飲み放題の日本酒だったならば、僕のいちばんはカルアミルクになっていたはずである。

――僕は夏目漱石を好む。初めて読んだ『吾輩は猫である』が読みやすかったからである。あれがもし『倫敦搭』だったならば、僕は夏目漱石を敬遠していたはずである。

――僕は学校の授業が嫌いである。トウモロコシが嫌いである。観劇が嫌いである。

【ノ】ノートつけはじめましてん

小説やら批評やらを漫然と読み耽っている。これはもったいないと思い始めた。琴線にふれる名文も3日と待たず忘却の彼方へ押しやられてしまうからだ。

そこで賢い僕はノートに名文を書き残すことにした。今回は現在絶賛読んでる中の夏目漱石吾輩は猫である』の中からいくつかを紹介しよう。

「人間の定義を云うとほかに何にもない。ただ入らざる事を捏造して自ら苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ」

「世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出て柄にもない官職に登りたがるものだ」

「人間は魂胆があればあるほど、その魂胆が祟って不幸の源をなす」

「世の中では万事積極的のものが人から真似らるる権利を有している」

「安心は万物に必要である」

「今の世に合うように上等な両親が手際よく生んでくれれば、それが幸福なのさ。しかしでき損こなったら世の中に合わないで我慢するか、または世の中で合わせるまで辛抱するよりほかに道はなかろう」

「あまり合わない背広を無理にきると綻びる」

他にもたくさんあるのだけど、今回はこのへんで。敬具。

【ゐ】一見矛盾するもの

一見矛盾する言葉が面白い。

これには文脈なんかは関係なく、ただそれだけで面白い。

例えば、最近聞いた歌の歌詞で言うと、「選ばれた有象無象」というのがあった。

「有象無象」というのは、種々雑多なくだらないもののことである。

対して「選ばれた」というのは、特選、なんて言われるように、種々雑多の中から選択されたものを意味する。

このふたつは一見矛盾するが、具体的な事例を思い浮かべれば、成立しなくもないことがわかる。

例えば、日本人の有象無象がいるとする。これを、色々な国籍の人がいる中から日本人を選んだのだと解釈すれば、「選ばれた有象無象」と呼べなくもないのだ。

本当はそんなに深い意味なんかないのかもしれない。でも、一見矛盾するというだけで深く考えさせられてしまう。読み手が目を止めてしまった時点で創り手の勝ちだ。

合理化の世の中を生きているからこそ、合理化が当然だからこそ、程よい矛盾がとても面白い。

今日から僕も矛盾ハンター。

【ウ】うしみつどきに思うこと

夜中に眠れなかったりすると通販サイトを見る。見てしまう。

この頃のお気に入りは書籍。何がいいって、原材料が紙だから、絶版のものを除けば値段はたかが知れている、というところ。

僕は芥川龍之介の評論が好きらしい。らしい、というのは自分でもまだ本当に好きなのか一過性の勘違いなのか判然しないがためのアレだ。

芥川の評論ばかり集めた本はないものかと密林を見渡すも、なかなかうまい具合に集められたものが見つからない。

AとBは入ってるけどCは入ってないよ、という本や、BとCは入ってるけどAは入ってないよ、という本ばかり見つかる。

綺麗にすっぽり丸々集めました、というのは、ページ数の問題なのか見つからない。重複する部分のある本を複数買うのもなんだか気持ちよくないし、複数冊に跨ずに、これ1冊あれば大丈夫だから、任せとけい、という親分肌な本がほしい。

そんな中で見つけたのが文庫版芥川龍之介全集。こいつの第7巻には芥川龍之介の評論ばかりが集められているらしい。

調べてみれば、AもBもCも収録しているとのこと。探し求めていたソレなのだ。

しかしここで、またつまらないこだわりが浮上する。全集の第7巻だけ持ってるってどうなの? という話だ。

内容だけ見たら申し分ないのに、表紙に書き出された「7」の数字だけが決まり悪く見えてくる。

僕はここに、人間の、――少なくとも僕の非合理性を見た。あまりにつまらなく、あまりに強い強制力!

僕は芥川小説を理解するだけの感性を持たないから、全集の他の巻を揃える気は毛頭ない。しかし、全集というのは全部集めてこその全集なのだ、という思い込みのために尻込みしている。

……ああどうか叱ってやってください。

案外、人間を支配しているのは本能でも利害でも理屈でもないのかもしれない。……

【ム】無添加で綴ります

人に話したり歌にしたりできない、排泄に失敗したくすぶりをここに書いてきた。

この頃はそれがあまりないから書くことも畢竟減ってくる。

生きているとストレスのようなものがかかる。これは悪いことではなくて、むしろ、そのストレスを得て、発散してという循環こそが、生きる上での心の生理機能なのだと思う。

ストレスと書くとどうにも悪いイメージがつきまとうが、恋のときめきみたいなものを含む、刺激やひずみを、ここではストレスと呼ぶ。

革の財布にしばらく触れないとパサパサに乾燥するように、心にも適度なストレスが必要である。

人と話すことや何かを創ることはこのストレスを昇華させることでもある。

でも、その中で余ってしまうストレスがある。こんなものは人に話せない、こんなものは歌にできない、という、消化の悪いストレスがある。(これも悪い意味のストレスではなく、マニアック過ぎて披露しても多くの人には面白味に欠けると思われる類のものを指す)

その部分をどこかひらけた場所に書き出そうとして始めたのが「もののイロハ」の始まりである。

僕はこの頃小説を書いている。小説というのはある程度何をやっても成立する寛容なジャンルなので、畢竟ここに書くようなことはそちらで昇華されていくことになる。

だから、何が言いたいかというと、僕は書くことに飽きたわけではないということである。

残飯のようなストレスをこれからも昇華させていくので、気長に更新を待っていてほしい。